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働くアリも、楽しむキリギリスも、生きる意義はどこに?

BOOK

「アリとキリギリス」のイソップ物語、ご存じですか?

夏の間、せっせと食料を蓄えるアリと、歌って踊って楽しく過ごすキリギリス。

子どもの頃はこの物語を読んで、将来のためにコツコツと努力すること、困難に備えて準備すること、自己責任の大切さ。そんな教訓が込められていると解釈していました。みなさんもそうじゃないですか?

将来のために今我慢して働くアリと、今を楽しむキリギリスか。

でも、時代とともに、その考え方は変化しつつありますよね。

のの
のの

アリのように働くことが全てではなく、キリギリスのように楽しむ生き方もありだという考え方も出てきた。


あなたはどちらのタイプでしょう?アリ?キリギリス?

完全に「アリ」タイプだね。

のの
のの

「キリギリス」タイプに憧れつつも、私も「アリ」タイプです(笑)

新しい考え方が出てきても

「将来のために今がんばって勉強しなさい」とか、まるで将来の安定という食料を蓄えるアリのように、今の行動が未来の自分に影響を与えるという考え方は、今もなお根強くありますせん?

今回は、アリの生態から学んだ「働かない」意義と、またキリギリス的な今を楽しむ生き方にも触れて、うんちくを語ってみたいと思います。よろしくっ~!

キリギリスを見捨てるアリ!「アリとキリギリス」裁判

 以前、NHKで「昔話法廷」という番組がありました。

裁判員制度について考えることを目的とした教育番組で、毎回いろんな昔話からその登場人物を現代の法廷で裁くという子ども向けのドラマだったんですね。

毎回最後は、観ている人がこの裁判をどう考えるかって問いかけられるんですが、子ども向けとは言え、とっても奥深い内容の番組だったんです。

その中で「アリとキリギリス」を題材にしたときがあって、これがまた面白かった。

アリとキリギリスの物語は、夏に遊び惚けていたキリギリス。冬になり食べるものがなくなってアリに食糧を恵んでほしいとお願いするも、アリはそれを拒否し、結果キリギリスは死んでしまう。そんな物語でしたよね。

で、食糧をキリギリスに恵んであげなかったアリが、親友であるキリギリスを見捨てて餓死させたとして訴えられ、有罪か無罪かが争われた裁判だったんですよ。

その裁判で、検察側がアリにこう問いかけるシーンがとても印象的でした。

あなたは、キリギリスのことが羨ましかったんじゃないですか?

だから、その嫉妬で見捨てたんじゃないですかって。

アリはそう問われ、答えに窮してしまう。

そして番組はここで終わるんです。あなたならこの裁判をどう考えますかって。

のの
のの

この気持ち、「アリ」タイプの私は、なんだかわかるような気がしたんですよね~。

みなさんなら、どう考えます?

働くアリも、休みます

そんなときに、こんな本を読みました。

『働かないアリに意義がある』長谷川英祐 著

この本は、アリの社会を通して「働かないこと」の重要性を教えてくれました。

働きアリなのに、働かない重要性?

そうなんです~。アリといえばせっせと働くイメージしかないじゃないですか?

のの
のの

でも、実際は、全体の7割ものアリが、ある瞬間、働かない時があるんだそう。

つまり、3割のアリは常に働いている。

この「ある瞬間」というのは、この働かない7割のアリは、ずっと働かないんじゃなく、働くときは働くんです。

ずっと働かない、じゃないんだね

そうなんです。それはなぜかというと

働かないアリは、働いているアリが疲れたとき、その代わりに働くんです。

もし、ずべてのアリが休むことなく働き続けていたら、疲れはて全滅してしまうから。

そうならないために、働くアリ、働かないアリが混在していることで、
働くアリが疲れてきたら、それまで休んでいた(気づかなかった)働かないアリが(やっと気づいて)代わりに働くことができる、と。

働かないアリたちは、能力がないわけではなく、
このサイクルを繰り返すことで、アリのコロニーを常に最適な状態で維持され、継続的に存続していくことができているんだと。

おもしろいですよね~。

じゃあ、働くアリと働かないアリは何が違うの?

のの
のの

「反応閾値」(いきち)といって、反応のしやすさの個体差の違いがあるんです。

すぐに仕事に取りかかる腰の軽いアリもいれば、なかなか腰を上げないアリもいる。

アリにとって仕事というのは、いわば「忙しさ」という刺激なんだそう。

腰が軽いアリは、ほんの少しの「忙しさ」にも反応してしまう。
働かないアリは、刺激が弱いうちは、それに気づかない。

これを人間でいうと、たとえばキレイ好きな人とそうじゃない人。
そこには汚れに対する反応の違いがある。我慢できるラインっていうのかな。

ちょっとしたゴミでもすぐに掃除したくなる人もいれば、よっぽど散らからないと気にならない人もいるじゃないですか。

そんな個体差が、アリの世界でも人間社会でもあるってことですね。

「働かない意義」が「生きる意義」へ

これを読んで思ったのは

のの
のの

人間社会では「働く意義」は問われても、「働かない意義」は問われないと思いません?

「働かざる者 食うべからず」「働いて納税しろ」みないに言われるしね

私の友人で、とってもよく働く人がいます。彼女にある時こんな質問をしてみたんです。

のの
のの

「宝くじが当たったら、今の仕事やめる?」

彼女曰く、一瞬考えたあとに、こう答えました。

辞めないな・・・。何かしてないと落ち着かないわ

これ、結構本音だなって思ったんですよね。つまり働くことはお金を稼ぐためでもあるけど、それだけじゃない。

私にとっては、働くことって稼ぐこと以上に自分の存在証明だと思っていました。

でも、この本を読んで、またキリギリス的な「今を楽しむ」考え方を思ったとき

働くこと、つまり、生産性があること「だけが」意義のある世界というのは、うまくコトが回っているときはいいけど、

なんらかの事情(育児、介護、病気など)で働けない、あるいは働かない人に、自分や家族がなってしまった場合、「働かない=よくないこと」というレッテルを他者に、あるいは自分で自分に、そう思ってしまいかねない。それはとてもシンドイ社会じゃないかなと思ったんですよね。

アリ社会のように、疲れたら安心して休める。頼ったり、頼られたり。その循環があるから、ずっと動き続けられる。ある時は働く人、ある時は働かない人として自分が存在できるというのは、とても生きやすい社会じゃないかなって。

そうなればいいけど、理想論だよ

確かに。「生きていくには働かないといけないんだよ~」って思う人もいますよね。

ただ、働く、働かない意義を超えた「生きる意義」を考えたとき

のの
のの

「休むこと」や「今を楽しむこと」も、欠かせない要素だと思うんですよね~。

キリギリスみたいに「今を楽しむ」時間があるからこそ、また働こうと思えるし、アリみたいに安心して休めるなら、誰かがシンドイ時は私が頑張るよ~って思えるし。

先の「アリとキリギリス」裁判であったように、アリはキリギリスのことが羨ましかったから見捨てた・・・としたら・・・。

人って自分を基準に生きているから、自分が頑張る人だと、他者にも頑張れって思いません?
「もっと頑張れよ、もっとちゃんとやれよ、あきらめるなよ」とか。

そんな人にこそ「働かない意義」を考えることは、「働く意義」を考えること以上に必要なことかもしれないし、「生きる意義」にもつながるよな~って。

そんなことをね、小さなアリたちの世界から教えてもらいました。

あなたは、どう思ったでしょう?

まとめ

  • アリの社会に見る存続の仕組み(働くアリ3割、働かないアリ7割)
  • 「働かない意義」は「生きる意義」にもつながる。
  • 働く、働かない、今を楽しむ、休む、そのバランスを考えるのが「生きる意義」

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