2022年FIFAワールドカップでの日本代表の戦いを、あなたは覚えていますか?
PK戦の末、惜しくも敗れたあの日。画面越しに見た選手たちの涙と、必死にこらえる姿。
あの瞬間、言葉にならない感情が胸に広がったことを、今もうっすら覚えています。
スポーツの世界では、勝てばヒーロー、負ければ批判の対象になることも少なくありませんよね。
ワールドカップやオリンピック、日本中から注目される競技ほど、それを応援する私たちは、勝手に期待を膨らませ、選手たちもその期待に応えようとする。そのプレッシャーたるや想像を絶するものがあるでしょう。
敗者に対して、私たち応援者は「よくがんばった!」「感動した」「勇気をもらった」「ありがとう」とねぎらいの言葉を投げかけたくなります。

でも選手たちにとって、敗戦直後のそうした言葉はもしかしたら何の慰めにもなっていないのかも・・・って思ったりもするんですよね。
悔しさを共有する風景 そばにいるだけで伝わる想い
そんなことを考えていたとき、こんなことを、思い出しました。
それは、子どもの部活動の引退試合でのこと。残念ながら、その試合は負けてしまいました。
泣きじゃくる子どもたちの姿を見て「ああ、残念だったね」や「これもまた青春だよな~」と感じていた私。
そんな中、ある二人の子どもの姿が私の目に留まりました。仮にAさんとBさんとしましょう。
試合に出ていたAさんは、人目をはばからず号泣していました。試合後もずっと、その涙は止まることがありません。
そのAさんの横に、同じチームのBさんが何も言わずにAさんのそばにずっと寄り添っていたんです。もうず~っとね。Aさんが場所を移動すれば、Bさんもそっと後を追い隣に座る。励ましの言葉をかけるわけでもなく、ただ黙ってうつむき加減で座っているだけ。
私がBさんの立場だったら、きっと何か言葉をかけずにはいられないでしょう。「よくがんばったよ」とかなんとか。でも、BさんはただAさんのそばにいるだけだったんです。
そんな二人の姿をみて、もしかしたら負けた時に一番救われるのは、どんな励ましの言葉よりも、ただ一緒にその悔しさを分かち合い共有する沈黙だけで十分なのかもしれないって感じたんですよね。
オリンピック内村航平選手の言葉:完璧なヒーローもまた、人間
スポーツする人間にとって、あたり前ですが勝利は何よりも望むものじゃないですか。
勝ちたい!期待に応えたい!勝てばまさにヒーロー。最高の気分でしょう。
でも、負けたら・・・。
この悔しさをバネに次へと繋げる力に変える、なんていうのは、きれいごとかもしれません。実際は、深く落ち込み、落胆しますよね。
それは、スポーツするその当事者だけではなく応援する側であったとしても、勝利に沸くヒーローたちを見て、あたかも自分のことのように喜びを感じる一方で、敗れて悔しい思いをしている選手たちを見ても、何かを感じずにはいられない。
そう、私が子どもの負けの試合で感じたように・・・。

たとえば、2020年の東京オリンピックで、体操の内村航平選手が予選敗退した後のインタビューで、彼はこう語っていました。
オリンピック代表枠。残り1枠を争った米倉選手に対して
代表選考をともに戦った米倉に、申し訳ない気持ちしか今はないです。
その言葉に、米倉選手が自身のツイッターで、こうツイートしていたそうです。
オリンピックには いつもと違う雰囲気が流れてたし、航平さんも一人の人間なんだなって思いました。
いつも素晴らしい成績を残し続けてきた体操界のヒーロー内村選手に対して、米倉選手が「航平さんも一人の人間なんだ」と感じた。
つまり、勝ち続ける完璧な超人ではなく、負けを知った普通の人間としての姿に、私たちは安堵し共感することってあるんじゃないかと思ったんですよね。

それは、「あの人は、私とは違う特別な存在だ」という認識から、「あの人も、私と同じように苦悩する人間なんだ」という安堵感に近い感情かもしれません。
だから「悔しかったよね」って素直にそう共感できるし、上記のBさんのように、言葉にしなくともただそばにいるだけで、一緒にその思いを共有できる。
勝ちたいという強い気持ちは尊いものですが、勝つことだけが全てではなく、負けたとしても、負けたからこそ、私たちの心を深く揺さぶる何かがある。私は、敗者の姿を見た時、そう思うんですよね。
あなたは、どう思うでしょうか。
まとめ
- 負けたとき、言葉より寄り添う沈黙が慰めになることがある。
- 完璧なヒーローではなく、苦悩する姿に人は共感する
- 勝った負けたより、そこに至る過程や想いに心動く